脱構築

*1で「脱構築」について読んだので、ちょっと残しておきますね。

 

ジャック・デリダの用語で「一から作り直すこと」。
既存の物事のあり方を解体し、一から新たな形に構築しなおすことを意味します。

 

ジャック・デリダが「脱構築」しようとしたのは、多くの人が「まあそうだよね」と考えている階層秩序です。
階層秩序の例としては「真理」と「虚偽」、「本質」と「みかけ」、「自然」と「人工」、「正常」と「異常」、「オリジナル」と「コピー」などが挙げられます。
これらは、前者が積極的に評価され、後者は前者よりも劣っているとされています。
こうした「階層秩序」を壊そうとするのが「脱構築」です。

 

例えば、デリダは「真剣で真面目な行為」と「演技としての行為」について分析をしました。
「演技」とは「真剣で真面目な行為」をまねること。
役者が愛を演じるとき、実生活での真剣な愛を模倣するように、「真面目な愛」が「演技の愛」に先立つという関係が成り立ちます。
オリジナル(真剣で真面目な行為としての愛)からコピー(演技の愛)が作られています。

 

しかし、デリダは「演技としての愛」こそが「真面目な愛」に先立っていると主張しました。
「真面目な愛」のとき、人は「デートに誘う」、「一緒に遊びに行く」など、まあいろんなことをするが、そのどれにしたって「愛といえばこんなことをする」といった台本が想定されているというのです。
確かに、「愛」についての行為を想像するとき、ドラマや映画・漫画・アニメの中から「シーン」を想像しています。
そして「愛といえばこんなことをする」という「台本」を覚えて、いざ自分が「真面目な愛」をするときには、その「台本」を思い浮かべて行動に移しているのです。
私たちは見えない「台本」に従って、具体的な行為を遂行しており、相手もこの「台本」を知っているから相手の行為を「愛」の表現だと理解できるのです。
そのように考えると「真剣で真面目な愛」は実際には「台本」に従った演技となり、オリジナルからコピーが生まれるという構図ができてしまうのです。

 

私たちの行為は、社会通念上でみんなが「そうだよね」と考えている「固定観念」「共通認識」を模倣しているのに過ぎないのですね……。
自分はみんなとは違うんだー、と「中二病」になる人は、ある意味「模倣」からの脱却をしているつもりなのかもしれませんが、「中二病」という行為自体も所詮誰かの「オリジナル」や「コピー」をまねたものに過ぎないのかもしれません。
そう考えると、自分って何なんだろうって思いますね。
自分という固有だと思っていた存在すらも、結局は誰かの「コピー」なんでしょうか。

 

ちなみに「脱構築」の概念は『俺ガイル』という作品の考察記事なんかでもよく出てきます。

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*1:出典:『フシギなくらい見えてくる!本当にわかる現代思想